京都の文化財

ここでは皆様が文化財に親しんでいただくための手引きとして文化財の基礎知識、
その魅力 と楽しみ方、トピックスなどを紹介していきます。

 

文化財の基礎知識

彫刻―仏像 | 寺院建築 | 絵画

 

絵画について
ここでは各時代ごとの絵画表現の特色について簡単に解説していきます。

<飛鳥・奈良時代>

仏教が朝鮮半島から日本にもたらされたのは538年のことであり、その後仏教は日本の信仰形態・建築・彫刻など様々なものに対して影響を与えることとなる。
飛鳥時代、天平・白鳳期の絵画においてもその画題は仏教に関するものが中心となり、他の画題はあまり描かることがなくなった。
作風については大陸文化の影響によるところが大きく、表現や描線は後世のものと比べて堅く感ぜられるものが多い。

『絵因果経』(上品蓮台寺蔵)…釈迦の伝記を描いた絵巻物

<平安時代>
894年の遣唐使にともない、日本では独自の国風文化が栄えた。
この頃の絵画は中国文化の束縛を逃れ、日本的な画題を日本人の情緒に即した柔らかいタッチで描くようになった。これを「やまと絵」という。
また一方で、空海によってもたらされた密教や平安末期に流行した阿弥陀信仰などを契機とし、仏教絵画においても画題・技法などの点でバリエーションを広げた。

絵巻物―

巻物状になっており、やまと絵(絵画)と詞書(文章)によって構成されている。
10世紀末頃から製作されていて、この絵巻は長い画面に描かれているが故にその鑑賞の仕方も右から左に既に見終わった部分を巻き取りながら、これから見る部分を巻き出すという特殊なものである。このような特殊性が次のような絵画技法を生んだ。

・異時同時…
一つのある場所で物語が展開される場合、同じ場所を何度も描く必要性が出てくる。しかし、あまりに何度もそうしていると画面がくどくなってしまう。
これを解消するための技法が異時同図法であり、この技法のもとでは一つの背景の中に同一人物が何度も描かれる。
鑑賞者はこの登場人物の動きを追って物語を読み取るのである。

・吹抜屋台…絵巻の画面の多くは物語の展開する地平を斜め上から見下ろす構図をとって描かれている。これを「俯瞰構図」というが、この場合物語の舞台が室内であったときには、ほとんどその様子を描くことができなくなってしまう。こ
れを解決するために建物から屋根や天井を取り払って描く「吹抜屋台」という技法が生まれた。

・引目鉤鼻…『源氏物語絵巻』などに見られる、目は細い線鼻は“く”の字形で描き表わされた顔のこと。
一見没個性的なこの表現は逆に鑑賞者が自由に登場人物の感情を汲み取ることを可能にしているという。

『鳥獣人物戯画』(高山寺蔵)・『病草子』(京都国立博物館蔵)など       

仏教絵画―
この時期密教のもとでは「曼荼羅」、浄土信仰のもとでは「来迎図」という絵画が流行した。

・曼荼羅…密教における仏の世界を表現した絵画『両界曼荼羅』(東寺蔵)・『高雄曼荼羅』(神護寺蔵)など

・来迎図…人々が亡くなった時に阿弥陀如来が迎えにくるという浄土信仰の考えを表現した絵画

<鎌倉時代>      
この時代の絵画における潮流として挙げられるのがリアリズムの流行である。この影響は絵巻物などにおいても現れ、現実にはあり得ない吹抜屋台を用いずに建物と人間の大きさの比率を正しく描くようになった。このような流行を背景に生み出されたのが新しい絵画に似絵と呼ばれる肖像画であった。

似絵―貴族や武士などの肖像画

『源頼朝像』『平重盛像』(藤原隆信・高山寺蔵)など

<室町時代>      
鎌倉時代に中国から伝わった禅宗は、室町時代に入ると将軍家の庇護を受けてますますの発展をとげた。天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺(さらにその上に別格本山として南禅寺)の五つの禅寺いわゆる「京都五山」が定められたのも、三代将軍義満の力によるものである。
歴代将軍のなかでも最も禅宗を庇護しこの時代の文化を発展させたのが、先の義満(北山文化)や七代将軍義政(東山文化)であり、この頃の五山はさながら文化サロンの様相を呈していた。        

頂相―
禅宗で用いられた高僧の肖像画
『大燈国師像』(大徳寺)など

水墨画―
禅宗の隆盛を受けて絵画では水墨画が流行を見せた。これは水墨画の墨という限られた色彩の中で自らの精神を表現するという特質が禅宗好みであったためである。中国や日本において水墨画の画人に禅僧が多かったのも同じ理由による。
水墨画の画人としては雪舟があまりに有名であるが、彼は日本における水墨画の先駆けである如拙の孫弟子にあたる。
      如拙―周文―雪舟(彼らは皆もと相国寺の僧である。)

・破墨…水で薄めた淡い描いた上に濃い墨を重ねて、立体感を出したり墨の濃淡のコントラストを楽しんだりする手法

・溌墨…墨を上からたらし、それを筆でいじることによって描く手法のことで、独特の勢いが表現される。

『瓢鮎図』(如拙筆・妙心寺退蔵院蔵)・『天橋立図』(雪舟筆・京都国立博物館蔵)
『四季花鳥図』(狩野永徳筆・大徳寺聚光院蔵)

狩野派―
江戸時代の終わりまで活躍した絵師の一派「狩野派」の始祖狩野正信は、将軍義政によって幕府の御用絵師に任命され、元信・松栄らとともにその礎を築いた。
狩野派といえば桃山・江戸時代の豪華な障壁画の印象が強いが、室町時代の狩野派は水墨画や水墨で描いた障壁画を中心に作品を残した。彼らの功績は禅僧の描くような難解な画題を避け、世俗の人にも親しみやすい作品を描いたということである。 

<安土桃山時代>
応仁の乱を経て幕府や朝廷の権威は失墜し、商人達を中心に生み出された桃山文化が花開いた。応仁の乱で荒れ果てた京都の町を復興したのは商工業に従事した町衆であったが、彼らはその後も経済活動を発展させ戦国大名らにとっても無視できない存在となっていった。
そのような中で、彼らは「戦乱続きで今日明日をも知れない世の中、今この時を楽しむ」という価値観を提示し、「現世」への関心を示した。この時代の作品にはこの価値観こそが多大な影響を与えることとなり、町衆の生活を題材にした『洛中洛外図』、遊女や歌舞伎を題材とした「風俗画」などが描かれた。権力や富を誇示しようとする大名の絢爛豪華な趣味から贅を尽くした障壁画も発展していった。

障壁画―
寺院やしろにある襖・壁・障子に描いた絵画のこと。これに屏風を加えて「障屏画」と呼ぶこともある。

・濃絵…障壁画のうち水墨で描いたもの

・金碧…障壁画のうち金地に極彩色で描いたもの

桃山時代の絵師達
この時代においては絵画がその隆盛をきわめ、多くの優れた絵師達を輩出した。

狩野永徳―狩野松栄の子であり元信の孫にあたる。元信は永徳を神童として寵愛を与え世間からは天才として讃えられた。永徳の代表作である大徳寺聚光院の襖絵は彼が若干24歳の時に描かれたものであるという。永徳は織田信長に気に入られて安土城の障壁画群(焼失して現存せず)を手掛け信長の死後も豊臣秀吉の寵愛を受けて大名好みの絵を描き、狩野派の名声を揺るぎ無いものとしていった。

長谷川等伯―能登の出身で絵仏師としての活躍の後上洛し、その才を存分にふるった。代表作としては子の久蔵とともに描いた智積院の『楓図襖』『桜図襖』などの作品が挙げられる。彼らは有力な公卿に接近することで絵画の製作における狩野派の牙城を崩そうと画策し、狩野派の強力なライバルとして立ちはだかった。しかし、その命脈は久蔵の死により江戸初期には絶えてしまう。

雲谷等顔―もとは毛利家の家臣で、雪舟の旧跡雲谷庵を毛利輝元から拝領して雪舟三代を自称した。雪舟の様式を受け継ぐ雲谷派の祖となった。

海北友松―近江浅井氏に仕えた武士で、後に狩野派の絵を学んで絵師に転向。建仁寺方丈の襖絵などを手掛けた海北派の祖である。

狩野山楽―もとは秀吉の小姓で、秀吉に画才を見出されて永徳に学ぶようになる。秀吉没後には家康にも仕えた。代表的としては大覚寺の襖絵『紅梅図』『牡丹図』などが挙げられる。その門下には妙心寺天球院の襖絵で知られる。狩野山雪などがいる。

<江戸時代>        
江戸時代に入ってからも狩野派の活躍は相変わらず続いた。永徳の孫にあたる探幽が徳川家康に寵愛を受け、狩野派ついに江戸幕府の御用絵師となったのである。(探幽は家康が築城した二条城の襖絵を手掛けた。)以来狩野派は数々の門弟を抱え、全国にその流派の絵師達を輩出していった。狩野派の絵師達の仕事は幕府ないの仕事はもちろん各藩の大名の専属絵師となったり、市井で一般庶民に絵を教えたりとひじょうに多岐にわたった。
しかし、この頃の狩野派はマンネリズムに陥り、これに対抗する形で琳派などの人々にも活躍の場が与えられた。このような中で文人画・写生画・浮世絵(浮世絵は江戸では流行したものの、京都ではあまり流行らなかった。)など傾向を異にする絵画が次々に生み出された。       

琳派の絵師・作品―
「光琳派」「宗達光琳派」の略で、その絵画の特色はデザイン性にあり着物の柄のように洗練された画風と平面化された画面によくあらわれていると言える。

俵屋宗達―琳派の祖となったといえる人物。宗達の後に活躍した尾形光琳も酒井抱一もその出発点は宗達の作品との出会いにあった。もとは京都で活躍した扇屋の主人で、建仁寺に伝来する『風神雷神図屏風』などの作者として有名である。

尾形光琳―雁金屋という呉服商の家に生まれる。彼のデザイン性は着物のそれにより培われたと考えられる。朝廷から法教という地位も与えられ、絵画だけにとどまらず工芸・陶芸の分野においても活躍し、特に蒔絵を得意とした。ちなみに弟の乾山は陶芸家として知られていた。

酒井抱一―光琳の後に琳派を受け継いだのが、姫路城主の息子である酒井抱一である。彼は琳派を広めていくが、江戸を拠点としたために琳派の活躍の舞台は京都から江戸に移っていった。(「江戸琳派」という。)俳人としても知られる。

・たらしこみ…琳派の絵師達が好んで用いた手法で、まず濃い墨で描いてそれ が乾かないうちに上から水分をたらすもの。水は墨を周囲に押しやるので、中央は淡く外側に行くほど墨が濃くなるという独特の効果が見られる。

・蒔絵…絵漆で下絵を描き、これが乾かないうちに金属の粉末や色粉などをつけ図様をあらわす手法あるいはその工芸品。

文人画―
もともとは中国の士大夫という高級官僚が余技として描いた大らかで柔らかな絵のことを指した。これが日本に伝来し中国趣味の知識人や画家に受け入れられ盛んになったのが日本の文人画である。           

日本文人画の先駆者たち
祇園南海・彭木百川・柳沢淇園(柳里恭)など。南海・淇園は武士、百川は町人と身分はバラバラであったが、中国に憧れた知識人という点では共通していた。

池大雅―京都西陣の農家に生まれ、14あるいは15歳で柳沢淇園に師事。同じ頃扇屋を開業しそれを生業とした。その後の青年期・壮年期にかけては全国を放浪し、長崎などで様々な趣向の絵と出会うことで文人画を発展させていった。京都には彼の作品を集めた「池大雅美術館」がある。

与謝蕪村―俳人としても有名で、全国を遊歴しながら俳句・絵画を作成した。大雅と同様に、後述する写生画などの影響を反映させながら文人画をさらに発展させ、江戸の田能村竹田・谷文晁・渡辺華山らの文人画家に道を開いた。         

写生画―
中国やオランダより伝来した遠近法や明暗法を用いた絵画に触発されて描かれたもの。また、18世紀末頃からの中国の画家で沈南蘋がいるが、彼の遠近法・明暗法を用いないものの対象に忠実に描くという画風(「南蘋派」という。)が伝えられたのも、写生画にとって一つの契機となった。

円山・四条派
応挙・呉春の流派をまとめて指したもの。後に竹内栖鳳や上村松園など明治の日本画壇を支える人々をも輩出する流派にまで成長していった。

・円山応挙―日本における写生画の祖とも言える人物。彼の描く絵画は、いくら「写生画」といってもただ眼前のものをそのまま写し取るだけの絵画ではなかった。リアルに描くだけではなく、そこに計算された構図を構築し、対象の気韻を一気に高める作品を描いたのである。
彼の作品は貴族や豪商を中心に幅広い層に受け入れられ、狩野派をも凌ぐほどの活躍を見せた。また彼は、レンズを覗いて見ることでその遠近感を楽しむ「眼鏡絵」の分野でも活躍し、足のない幽霊の絵を描いて人々を驚かせたりと話題にも事欠かなかった。

・呉春―もともとは与謝蕪村に師事し文人画を描いていたが、後に応挙と出会って写生画を描くようになった。応挙風の写生画に文人画風の情緒を取り入れた作品で人気を得た。

伊藤若冲―
もとは京都の青物商であったが、家督を弟に譲り画業に専念した。動植物、特にニワトリを好んで描き、独特のディフォルメを加えたリアルな作品を残した。
また禅宗にも深い関心を示し相国寺にも参禅したため、その作品は相国時に伝来するものが多い。(現在はその多くが相国寺内の承天閣美術館に展示されている。)

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